六萬寺のはじまり
今から約1280年前の天平2年(730年)聖武天皇が讃岐の国主高晴公に禄を増し、新たに領地六万戸を御下賜になりました。高晴公は大変喜び、国家の豊穣を祈り大恩に報いるため牟礼の郷に寺院を建立しました。これをお聴きになられた帝より『国豊寺』という寺号の勅額と新羅王から献上の阿弥陀仏を本尊にせよと賜ったのが寺の始まりであると伝えられています。
その後40年ほど経って宝亀年中(770〜780年頃)に国内に流行した疫病を鎮めるため当寺にて一大祈祷会を修したところただちに治まりました。これを喜んだ高晴公は六万戸の領民に一戸一躯の銅の仏像を奉納せしめたため六萬寺と呼ばれるようになりました。
その霊験あって以来、多くの信心を集め七堂伽藍を備え、今の琴電八栗駅から大町駅にもおよぶ壮麗な寺院となりました。
源平合戦時代の六萬寺
寿永2年(1183年)9月、源平合戦のさなか安徳天皇が屋島に御遷幸なされる時、御殿の築造が間に合わず、三種の神器と共に翌年まで御行在所として六萬寺にお留まりになられました。その後一旦、京へお帰りになる予定で摂津までお上りになられましたが一の谷の戦いで敗れ、再び当地に御遷幸なされたと伝えられています。その時お供をした公卿らの詠んだ歌が残されています。
嬉しくも 遠山寺に 尋ね来て 後のうき世を 洩らしつる哉
三位中将 平 重衡
いざさらば 此山寺に すみ染の 衣の色を 深くそめなむ
経誦坊 祐円
世の中は 昔語りに なれぬれど 紅葉の色は みしよなりけり
但馬守 平 経政
また、当寺の茶庭には平宗盛寄進の六地蔵灯篭がのこされています。
文治元年(寿永4年)(1185年)2月、屋島合戦の折には源義経がこの地の鎮守である勝軍地蔵愛宕大権現に戦勝祈願をしたと伝わっています。四国管領記には佐藤継信戦死の際、義経が当寺の住僧に依頼して宇龍(瓜生)の丘に葬り武具を寄進し、弁慶、伊勢三郎義盛などの源軍の将はそれそれ形見の書状を残しておいたことが書かれています。
伽藍焼失〜現在の六萬寺
今から約430年前の天正11年(1583年)4月、土佐国主 長宗我部元親が当寺へ参り、寺の由来や平家や源氏の寄進の品々を見て大変感動し『天正11年4月 長宗我部元親 当国に陣して此寺一見畢(この寺を一見し終えた)』と書き残し将士の者に厳重に寺を大切にするよう言い聞かせて翌日出発した。ところが家来の桑名太郎左衛門という者の失火により、伽藍のほとんどは焼け失せてしまいました。怒った元親は責任者の兵卒2名を打ち首にして牟礼町大町の鐙田というところで四本竹にかけてさらし首にしました。今なお同所には両人の墓が残っています。
この大火事によって寺の建物、宝物の大部分は失われてしまいましたが、ただ鎮守勝軍地蔵のみが焼失を免れました。現在の建物は火災から約100年後の延宝7年(1679年)5月に初代高松藩主松平頼重(源英)公の帰依により、鎮守の旧祉に建てられたものです。建物や宝物とともにほとんどの記録も失われてしまいましたが、当地に残る六萬寺の旧伽藍に由来する地名などが在りし日の姿を今に伝えています。
1、琴電八栗駅の北1町ほど(110メートル)の所にある総門は六萬寺の大門跡です。
2、琴電六万寺駅の北2町ほど(220メートル)の所に十王堂(閻魔堂)の跡があります。
3、ただ今の寺より西南2町ほど(220メートル)の所が金堂の跡で六萬寺の中心地でした。
4、琴電大町駅のすぐ北に鐘撞堂という地名が残っていますが細川右京太夫政元建立の鐘楼跡で六萬寺の南大門でした。
5、ただ今の菜切地蔵の所が西院跡で、合わせて42の枝院がありました。
参考資料
源平盛衰記、四国管領記、南海治乱記、讃岐名勝図絵、全讃史、讃州府誌、香川県史、六萬寺要誌
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香川県高松市牟礼町牟礼1450番地
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